経済成長、気候危機と人々の幸福
– 松下 和夫
京都大学名誉教授、日本GNH学会会長、(公財)地球環境戦略研究機関シニアフェロー
「地球沸騰化の時代」の到来
2023年7月27日、国連のグテーレス事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と述べました[1]。これは世界気象機関(WMO)と欧州委員会のコペルニクス気候変動サービス(C3S)による、「7月が人類史上最も暑い月となることを裏付ける公式データの公表」 を受けた記者会見で述べたものです。
さらに事務総長は、次のように述べています。
「これらはすべて、科学者の予測や度重なる警告と完全に一致している。 唯一の驚きは、その変化の速さである。 気候変動は今ここにある。 恐ろしいことだ。 そしてそれは始まりに過ぎない。」。「世界の気温上昇を1.5℃未満に抑え、気候変動の最悪の事態を回避することはまだ可能だ。 しかし、それは、劇的で早急な気候変動対策によってのみ可能なのだ。加速する気温上昇は、加速する行動を求めている。私たちはまだ最悪の事態を食い止めることができる。 しかし、そのためには、猛暑の1年を野心の1年に変え、気候変動対策を加速させなければならない」
経済成長と人類の幸福
産業革命以降の経済成長は、人類に豊かさをもたらし、絶対的貧困は縮小し、人類の寿命は伸び、人口は増大しました。経済成長は欧米などの先進国から始まり、20世紀後半からは、経済のグローバル化により、途上国や中進国にも広がりました。その一方、急激な人口増加と経済成長は、CO2排出量や資源の消費を拡大させ、環境破壊、資源枯渇、気候変動、生物多様性の喪失などの問題が引き起こされました。現在地球の自然環境は持続可能性の限界に近づいており、このまま放置すると将来、人類の生存基盤が脅かされる可能性もあります。
そもそも経済成長の目的は、所得を高めて生活を豊かにすることです。では、所得が増えれば人は本当に幸福になるのでしょうか。米国の経済学者イースタリンは、一人当たりの実質所得が上昇したにもかかわらず、生活満足度が向上していないことを示しました(これはイースタリン・パラドックス[2]と呼ばれています)。その後の幸福に関する多くの研究が明らかにしたことは、経済成長が必ずしも幸福感の向上につながらないことです。経済成長の中身が問われているのです。
経済の発展は、本来「惑星の限界」[3](プラネタリー・バウンダリー、図1参照)のなかで許容される範囲内で営まれるべきものです(英国の経済学者ケイト・ラワースはこれを「ドーナツ経済」[4] (図2参照)と呼んでいます)。
図2のドーナツ型の図の外縁が表すのは、地球環境の限界を崩さずに人間の活動ができる「環境的な上限」のラインです。一方で、ドーナツの内側(中心に開いた穴の部分)の輪が表すのは、すべての人の生活の基本となる、食糧や住居、教育や所得などの「社会的な基盤」です。そして、このドーナツの外縁の「環境的な上限ライン」と内側の輪の「社会的な基盤」の2つのラインの間を、「人類にとって安全で公正な範囲」であるとし、この範囲内での経済活動によって、惑星限界を超えずに社会的な基盤を確保しつつ、人類の福祉の向上が達成できるとしています。
このドーナツ経済が確立されれば、SDGs(持続可能な開発目標)が求める持続可能で包摂的な経済成長と繁栄の共有と働きがいのある人間らしい仕事のための条件を、各国の発展段階・能力の違いを考慮に入れて作り出すこと、が達成可能になるのです。
ブータンの国民総幸福(GNH)が示唆するもの
経済成長が「目的」ではなく、人々の幸福を向上させるための「手段」であることを明確にしているのが、ブータンのGNHの考えです。
ブータンでは国民総生産(GDP)に代わる国の目標として、GNHを掲げ、それを現実の行政における政策統合の指針として生かしています。
GNHを提唱したブータンの第4代ワンチュク前国王は次のように考えました。
「国民が望むものはつきつめれば幸せである。その定義は人によって異なるが、それは物質のみでは得られず、最低限の物質的豊かさに加え、家族や地域社会のきずな、人と自然の和、国民が共有できる歴史、文化が大事である。」 これらをワンチュク国王はGDPにかわるGNHと表現したのです。
それでは幸せの実現という目標を、どのようにして現実の政治や行政の仕組みに反映できるでしょうか。ブータンではGNHをスローガンにとどめず、実現のための指標を開発し具体的な政策評価のプロセスを行政の中に制度化する取り組みを進めています。2008年の憲法第9条2項では、「政府の役割は、GNHを追求できるような諸条件の整備に努めることにある」と明記しています。
GNHコミッションによると、GNHは哲学であり、経済理論であり、実際的な政策上の目的です。伝統文化と近代科学を融合する哲学としてのGNHは、開発の優先順位の転換につながり、経済理論としてのGNHは、GDP批判を展開し、人々の精神的・物理的・社会的厚生の向上を量的・質的に重視しています。政策上の目的としてのGNHは、持続可能な発展を達成するための詳細な優先順位と手段を明示しています。
ブータン国家環境戦略における持続可能な発展の定義は、「独自の文化的統合と歴史的遺産、そして生活の質を将来の世代が失わないように今日の発展と環境を維持する政策的意思と国家的能力」とされています。第5代のワンチュク現国王は、その演説で、「GNHは、優しさ、平等、思いやりという基本的な価値観と経済的成長の追求の架け橋となると信じています」と表現しています 。
GNHは、①持続可能で公平な社会経済的発展、②環境保全、③文化振興、④よい統治の4つの柱からなり、これらはさらに、①生活水準、②健康、③教育、④生態学的健全性、⑤文化、⑥心理的幸福、⑦ワーク・ライフ・バランス(時間の使い方)、⑧地域の活力、⑨よき統治、の9つの領域に分けられています。
GNHの考え方に基づき、政策の優先順位が再評価され、GDPにかわって人々の精神的・物理的・社会的厚生の向上を量的・質的に評価する指標が開発されています。そしてブータンでは数年ごとにこれらの指標に基づく調査が実施され、それが公共政策や資源配分のあり方の改善に生かされています。GNHは、人間開発指数やGDPなどの指標を否定するのではなく、それぞれの特徴と役割を十分認識し、補完的な関係においています。
しかしブータン経済や環境の持続性には多くの課題が存在します。気候変動のような新たな脅威も現実化し、グローバリゼーションとIT化など情報技術の進展により、現代世界の消費主義文明は容赦なくブータンにも流入し、ブータン国民の伝統的価値観に変化が生じることも予想されます。厳しい自然環境や地政学的な状況の下で、GNHをよりどころとして、国民の厚生と幸福を中心に据えて、人間開発と国の発展を模索するブータンの今後は、持続可能な発展と人々の幸福の向上を考える意味で他の国々にも多くの示唆を与えるものです。
[1] https://news.un.org/en/story/2023/07/1139162
[2] https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=3743147
[3] https://www.stockholmresilience.org/research/planetary-boundaries.html
[4] https://doughnuteconomics.org/about-doughnut-economics
松下 和夫氏 略歴
京都大学名誉教授、(公財)地球環境戦略研究機関シニアフェロー、日本GNH学会会長。1972年に環境庁入庁後、大気規制課長、環境保全対策課長等を歴任。OECD環境局 (本部パリ)、国連地球サミット (UNCED)事務局(上級環境計画官、本部ジュネーブ)でも勤務。
2001年から2013年まで京都大学大学院地球環境学堂教授 (地球環境政策論)。環境行政、特に地球環境政策・国際協力に長くかかわる。持続可能な発展論、環境ガバナンス論、気候変動などを研究。
主要著書に、「1.5℃の気候危機」(2022年)、「気候危機とコロナ禍」(2021年)、「地球環境学への旅」(2011年)、「環境政策学のすすめ」(2007年)、「環境ガバナンス」(2002年)、「環境政治入門」(2000年)、”Environment in the 21st Century and New Development Patterns” (2000年)など
図1.惑星の限界(出典は注3)
図2.ドーナツ経済の概念図(出典は注4)
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