1.日時 | 2017年2月25日(土) 13:30~16:00 |
2.場所 | 北九州市立男女共同参画センター・ムーブ 5階大セミナールーム |
3.パネリスト | 松岡 由季氏(国連国際防災戦略事務局(UNISDR)UNISDR駐日事務所代表) ヴィオレタ・セヴァ氏(弁護士、フィリピン・マカティ市顧問) 吉村 静代氏(益城だいすきプロジェクト・きままに代表) 渡邊 とみ子氏((特非)かーちゃんの力プロジェクトふくしま理事) |
4.コーディネーター | 堀内 光子(KFAW理事長) |
5.参加者 | 107名 |
KFAWでは、国連の防災に関する専門家や国内外で防災・復興の最前線で活躍されている方々をお招きし、防災、減災や復興について、ジェンダー平等や女性のエンパワーメントの観点から考えるセミナーを開催しました。
基調講演:
「仙台防災枠組とジェンダーの視点」
松岡 由季氏(国連国際防災戦略事務局(UNISDR)UNISDR駐日事務所代表
災害による世界的な被害傾向
1970年から2011年の40年間で、災害による死亡者数の75%がアジア太平洋地域に集中しており、日本、フィリピンが位置しているこの地域は、世界的にも地盤が非常に脆弱で、災害リスクが高いことが科学的にも証明されています。災害は、コミュニティの持続可能性に大きく影響します。持続可能な社会の構築のためには、災害に強いコミュニティ作りが不可欠です。持続可能なコミュニティを作るには、重要な5つの原則があります。災害への強靭性(レジリエンス)、経済活力、環境の質、社会的平等、生活の質です。これらの5つの原則を確保するには、社会の参加型プロセスが重要です。そこには、ジェンダーの観点から女性と男性双方の参加型プロセスが含まれます。
防災に関する国際的議論の進展とUNISDR
東日本大震災から4周年のタイミングとなる2015年に、第3回国連防災世界会議が仙台市で開催されました。この10年前の2005年には、1995年の阪神淡路大震災の10周年のタイミングで、第2回国連国際防災会議が神戸市で開催されました。このとき採択されたのが、「兵庫行動枠組」です。さらにその約10年前の1994年には、第1回国連防災世界会議が横浜市で開かれています。国連の国際防災世界会議が、3回すべて日本で開催されています。これは、日本が防災分野で他国から尊敬を集めている証拠です。
UNISDRの前身は「国連国際防災の10年」という約10年間の防災プログラムで、これは1989年に始まりました。しかし、国連は防災・減災に永続的に取り組む必要があるとして、それを引き継ぐ形でUNISDRが組織として2000年に国連総会で設立されました。2005年に兵庫行動枠組が採択されると、この実施・推進がUNISDRの責務となりました。2年ごとにこの枠組の進捗状況を分析し、課題や解決法を議論したり、新しいパートナーシップを創出するため、グローバル・プラットフォームという国際会議を開催してきました。このグローバル・プラットフォームを4回開催し、兵庫行動枠組の10年の期限が来るときに、第3回国連防災世界会議が開催され、兵庫行動枠組(HFA)を承継する枠組として、「仙台防災枠組」が採択されました。
仙台防災枠組を作るに当たって、兵庫行動枠組がどのように実施されたか検証した結果、ジェンダー主流化が課題であることがわかりました。防災・減災対策においてジェンダーの視点を取り入れることの重要性や認識が強まりつつありましたが、ジェンダーに関する分野では具体的な進捗が見られませんでした。
第3回国連防災世界会議と仙台防災枠組
第3回国連防災世界会議は、延べ参加人数15万人、公式代表団6500人と国連の日本開催の会議では最も大きい規模の会議となりました。この会議では、「レジリエンス」に加え、「インクルーシブネス(包摂性)」がキーワードとして掲げられました。障害者の参加を意識して開催された先駆的な会議であったといえます。 大臣や首相が参加したハイレベル・セッションのテーマのひとつが「防災における女性のリーダーシップ」でした。政府高官の間でも、女性の問題が課題であることが認識されていたのです。
第3回国連防災世界会議で採択された内容が、15年間の防災指針である「仙台防災枠組2015-2030」となりました。世界中で災害によって失われる人命や財産に対するリスクや損失を大幅に削減するため、関連省庁がすべて関与する分野横断的な防災・減災の目標が策定されました。目標を実現するために国や地方が優先すべき行動として、1)災害リスクの理解、2)災害リスク管理のためのガバナンス(制度設計)、3)強靭化のための事前投資、4)効果的な応急対応への備え強化と、現状よりも災害に強い状態を目指す「より良い復興」(ビルド・バック・ベター)の4つが示されました。東日本大震災の4年後に、被災地である仙台市で採択されたこの枠組は、日本の災害の経験が色濃く反映されています。まさに日本の経験から国際社会が学んだのです。
ジェンダーの視点と仙台防災枠組
仙台防災枠組を実施するに当たり、女性と若者のリーダーシップ、包摂的な意思決定が必要とされました。女性や障害者、高齢者に力を与え、脆弱なグループとしてみるのではなく、「変革をもたらす行動主体」として認識すべきであると言及されています。女性の能力を開発し、男女の差別なく参画する機会を与えること、そして、国や地方などの公的機関がこのような動きを推進することが期待されています。
日本のみなさんへの期待 - 日本の経験を国際社会へ共有
日本は地震だけでなく、多くの災害に見舞われ、このような多様な災害に対応するための知見をたくさん蓄積してきました。ぜひ、日本の経験は世界の学びになるということを意識していただけたらありがたいです。
パネルディスカッション:
「レジリエンスの追求-地域レベルの災害リスク軽減・管理におけるジェンダー主流化を通して」
ヴィオレタ・セヴァ氏(弁護士、マカティ市顧問)
フィリピンは、グローバルリスク指数で世界第3位の自然災害に弱い国です。また、グローバルジェンダーギャップ指数では、111位の日本に比べ、フィリピンは7位ですが、まだ多くの課題があります。
兵庫行動防災枠組2005-2015や仙台防災行動枠組2015-2030などの国際的合意や、1987年のフィリピン共和国憲法、女性大憲章、2009年気候変動法、2010年のフィリピン災害リスク軽減・管理法、国家災害リスク軽減・管理計画などの国内法令で、女性の役割や重要性が認められています。しかし、国家レベルでジェンダー主流化が謳われてはいるものの、地域レベルでは、政策や計画にあまり反映されていません。なぜなら、ジェンダー問題に関する理解が進んでいないこと、地方にとってジェンダー主流化は新しい概念であること、ジェンダーに関する分析もあまり進んでいないことなどがあります。
まず、ジェンダーに関する意識を高め、特に教育を推進する必要があります。また、ジェンダー主流化に関する関係者の能力開発も大切です。そして、国際社会、民間などさまざまな分野から支援を得られるようにロビー活動の実施も重要です。
フィリピン・マカティ市は、ジェンダーと開発において最も先進的な地方都市で、ジェンダーに配慮した災害リスク軽減・管理計画を実行しています。私たちのコミュニティのレジリエンス(災害への強靭性)を高める上で、女性には大きなポテンシャルが秘められており、積極的に活用・支援すべきです。フィリピンはジェンダーに関して障害や課題がありますが、私たちが力を合わせれば乗り越えられると信じています。
「主役はわたしたち 益城中央小学校避難所 「きままに」のあゆみ」
吉村 静代氏 (益城だいすきプロジェクト・きままに代表)
2016年4月の熊本地震で自宅が全壊し、私は、益城中央小学校に避難しました。中央小学校は益城町の避難所から溢れた人たちが集まってきたため、ほとんどの人が顔見知りではありませんでした。足の踏み場もない状況だったので、すぐにラインテープで非常通路と非常口の2ヶ所を設けました。こうすることで、区画整理ができました。また自宅が心配で外出するときには、布団をたたみ、ついでに周りのお掃除をしてもらうように呼びかけました。避難所では黙って下を向いている状況が思い浮かびますが、この避難所ではそうしている暇がありませんでした。1カ月後、段ボールベッドとパーティションが入ってくると、コミュニティカフェとキッズスペースを作りました。昼間はすべてのパーティションのカーテンを開け、ひきこもりがちにならないように皆さんに「お茶も飲めますよ」と声をかけながら、コミュニケーションを図りました。それぞれの痛みを共有することで、みんなが元気になっていきました。2ヶ月で行政の手を離れ、避難所は完全自主運営に切り替わりました。
避難所のマニュアルには必ず最初に役割分担をすることが書かれています。しかし、私たちは、避難所はコミュニケーションのできる安らげる場所であってほしいと考えていました。だから、「できる人が、できることを、できる分だけ」と考え、一切役割分担をしませんでした。自分の得意分野を担い、周りの人から感謝されるようになり、日常を取り戻すことで私たちは元気になっていきました。
2016年8月、私たちは大きく二つの仮設団地に移行しましたが、幸いなことに行政に要望してみんなでまとまって隣同士の仮設住宅に移り住むことができました。私たちは、避難所で培ったコミュニティを活かし、自宅再建・災害公営住宅へつなぐために、情報の受発信、自立支援、風通しの良い安心な福祉のまちづくりの推進をめざし、「益城だいすきプロジェクト・きままに」として活動をスタートさせました。そして、避難所と違って仮設住宅にはドアがあります。このドアを開けることはとっても大変なことです。どうやったら顔の見える関係が作れるのか仮設住宅の中で模索を続けています。
「福島の福幸(ふっこう)のために」
渡邊 とみ子氏((特非)かーちゃんの力プロジェクトふくしま理事・いいたて雪っ娘かぼちゃプロジェクト協議会会長)
私の原点は、嫁いでから暮らしてきた飯館村にあります。私を大きく変えたのが市町村合併でした。村を無くしたくないという思いで、飯舘村の代表となり地域づくりに関わったことが、活動の転機となりました。当時は女性が男性の言うことを聞いて、男性の決めたことに従うのが普通だったので、何の肩書きもない、農家の長男の嫁が代表を務めるのは大変なことでした。村を残すことが決まったとき、村の自立のために飯舘村からオリジナル品種を発信したいとの思いから、イータテベイクじゃがいも研究会を立ち上げ、加工所を作りました。そして、種の生産が国から認められ、事業が軌道に乗り始めたときに、原発事故が起きました。
原発事故後、飯舘村での生産はできなくなりましたが、これまでの思いと活動をそう簡単にはあきらめたくありませんでした。先の見えない中、避難するとすぐに「いいたて雪っ娘かぼちゃ」の種を撒きました。そして、その頃、福島大学の先生から、かーちゃんたちが食に関する技や味を伝えることで地域を元気づける活動の話を聞きました。私は、すべてを失って泣いていたかーちゃんたちを一人一人訪ね歩いて、人と人を結ぶ、地域と地域を結ぶ「結もちプロジェクト」を開催しました。これをきっかけに「かーちゃんの力プロジェクト」を立ち上げ、かーちゃんたちに笑顔が戻ってきました。そして、地域の方々に支えられながら、阿武隈地域の伝統料理の継承と普及を目的に、「あぶくま茶屋」で健康弁当、漬物、お菓子等の製造販売を始めました。
同時に、世界に通用するかぼちゃを飯舘から発信したいという強い気持ちがありました。しかし、それは消費者からすれば心配なことでした。当時の国の野菜の基準が1kg当たり500ベクレル以下だったときに、私は20ベクレル以下というはるかに厳しい独自の基準を設けることにしました。これは覚悟のいる決断でした。
飯舘村は2017年3月に避難解除になります。私は種を繋ぐために、戻りたくても戻らない決断をしました。何かをやろうとすれば困難にぶつかることもあります。何もやらなければ何も残らないし、何の成長もありません。あの時、原発を理由にいいたて雪っ娘の種をまかなかったら今はありません。ふるさとを作ってきた先人達、かーちゃんたちの歴史に学び、飯舘に生きてきた誇りを持ってがんばっていきます。
各パネリストからの報告に続いて、会場からの質問をもとにパネルディスカッションを行いました。
また、セミナー終了後には交流会を開催し、各パネリストと意見交換する場を設けました。